総統の鉄甲親衛隊――「憲兵装甲車隊」消えた部隊、知らされず歴史
1949年12月に蒋介石が台湾まで亡命し、一時的に陽明山の草山招待所(のちに草山行館となった)を官邸として利用したが、翌年の5月に士林の官邸および要塞の建設が完成し、正式に士林官邸へ入居した。士林官邸を防衛するために、1952年から台北に駐屯していた装甲兵第1総隊の第13大隊の中に2中隊を抽出し、「衛戍装甲車排(大統領親衛装甲小隊)」として士林に配置し、台北衛戍師団の歩兵第32師団の管理下に置くことにした。ただし、出動命令権は総統府の侍衛長室が持っていた。
一方、憲兵隊が最初に装甲車を導入したのは、1957年の6月頃である。
当時憲兵第二〇一連隊(台北)と憲兵第二〇二連隊(台南)が暴動鎮圧のために、南北それぞれM5ハーフトラックを採用し、「特種機動憲兵中隊」の下に「装甲車小隊」を編成した。
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M3A1スカウトカー
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1958年5月に、「台北衛戍総部」が「台湾警備総司令部」に合併され、「衛戍総部」所属の装甲車小隊(M20装甲車3両)が憲兵司令部の管理下に置くことにし、「憲兵装甲車隊」に改編された。そして本来のM20装甲車が廃止され、5両のM24戦車および1両のM3A1スカウトカーが導入され、同じように士林官邸の近辺に駐屯されていた。このM3A1スカウトカーは蒋介石の緊急脱出車として改造され、官邸が攻撃を受けた場合に蒋介石を乗せて、5両の戦車に守られながら安全の地へ避難することができる。このため、「憲兵装甲車隊」は蒋介石の鉄甲親衛隊として、機密部隊に扱われていた。
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M20装甲車
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1967年10月、「憲兵装甲車隊」と「憲兵特種機動中隊―装甲車小隊」が廃止された。その代わりに「警備総司令部」の警備大隊の中にひと中隊110人(第2中隊)が抽出され、「憲兵戦車中隊」に改編された。同じ頃、士林要塞の「福山警備区指揮部」が官邸の警護司令部として設立され、この「憲兵戦車中隊」は福山警備区指揮部」所属の憲兵第216大隊に編入され、独立の「憲兵第103戦車中隊」の部隊番号が付与されたが、翌年の11月に憲兵第217大隊の所属に変更された。ただし、出動命令権は警備総司令部が握っていた。
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M24軽戦車
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1970年首都防衛体制が全面的に検討され、士林要塞を警備する部隊が「憲兵第二〇一特別警衛指揮部」の設立と共に4個の憲兵大隊まで拡大され、同時に「憲兵戦車中隊」が撤去された。「磐石三号作戦計画」により、首都防衛の装甲兵力は「台北衛戍師団装甲歩兵大隊」が支援するとされ、同じように「台湾警備総司令部」がその出動命令権を持っている。
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1957年、蒋緯国(左から3番目、蒋介石の養子)夫妻と憲兵装甲車分隊
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