台湾には、憲兵隊が大統領の側近警護(ボディガード)勤務を担当することが当たり前と思われている。「西安事件」において蒋介石を守るために命まで捧げる憲兵先輩を記念する「憲兵の日」の認定や、のちに「蒋介石が各地巡回する場合、憲兵が見当たらないと車から降りてこない」という説の誕生も、生涯現役大統領の蒋介石にとって、
憲兵隊は唯一信頼できる側近警護であることを明らかに示している。
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国民党政権が台湾に亡命してから、蒋介石の故郷(中国浙江省)出身の憲兵隊軍人を中心とした側近警護人員もついに定年を迎え、今度は台湾本島を避け、
最前線の金門島にある第二下士官学校(既に
廃校)から選抜し憲兵学校に入学させ、卒業後に側近警護隊に就任するようになった。側近警護隊の場合は、
外部の軍職と人事交流しないため、大統領側近警護における金門出身の「金門派憲兵」が大半となってきた。今まで内衛室主任(侍従武官、少将)
のほとんどはこの流れの出身である。
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1974年に蒋介石が亡くなり、まもなく
長男の蒋経国が大統領に就任した。
1975年からアメリカ合衆国シークレットサービス
(U.S. Secret Service)を参考とし、
「連合警衛安全指揮部(陸軍、憲兵、警察、情報局、捜査局を統合した大統領護衛連合司令部、略して連指部)」を設立した。側近警護隊も正式に国防部の部署として
「国防部警衛大隊」に改名し、「連指部」の指揮命令を受け、勤務するようになった。当初は側近警護隊の隊員らをアメリカのFBIへ送り出し、
SPにおける拳銃実戦の特訓を受けてきた。また、その時の総統府侍衛長(侍従武官長)孔令晟将軍が在任中に陸軍士官学校
15期の同級生劉雲樵を誘い、
「連指部拳術師範訓練班」を開催し
「八極拳」の指導を行ってきた。
そして十数年間側近警護隊の編成や名称が変わっても、「八極拳」が必須日課となり、今も毎シーズンの定期検定が行われている。
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「側近警護隊」の警護官(将校や下士官)のほとんどは憲兵隊であり、1988年に在任中の蒋経国大統領が亡くなり、殯所警備のために
「七海警衛室」【注】が全員出動された。
結局、法定の後継者である李登輝大統領に警護空白が生じ、慌てて警官隊から「大安警衛室」を設立した。これを機に警察関係も側近警護システムに組み込まれるように改正されたが、
いまだ憲兵隊出身者のほうが7:3の割合で圧倒的な大多数を占めている。
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1994年から「連合警衛安全指揮部」が「国家安全局組織法」の改正により正式な組織になり、名前も「国安局特種勤務指揮中心(国家安全局特種勤務指揮センター)」
に変えられ、警察の「保安警察第6総隊第1警官隊(保6総隊警官隊)」と軍の「国防部警衛大隊」を統括しているにもかかわらず重要職のほとんどは憲兵隊が
就くという人事構造も事実である。
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安全局に所属された「国防部警衛大隊」は、側近警護人員の選抜/教育/訓練とも憲兵司令部に委任されため、 2005年から憲兵司令部の管理下に置かれ、
名前も「憲兵司令部警衛大隊」に変更された。
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「憲兵司令部警衛大隊」はいまもその名の通り、国家安全局組織法に基づいて、大統領副大統領およびその家族、元大統領や指定された政府要人の身元の安
全確保を関連組織とともに実施している。
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2000年に台湾史上初の女性副大統領の登場により、女性側近警護官の導入が始めた。
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